『実は折り鶴を持ってきました。』
原爆資料館内、
佐々木禎子さんの折り鶴を前にした
オバマ氏はそう切り出すと
花が彩られた和紙で丁寧に折られた
4羽の折り鶴を差し出した。
『少し手伝ってもらったけれど、私が作りました。』
白と桃の2羽を
同行した小中学生2人に1羽ずつ手渡した。
『私たちは戦争の苦しみを経験しました。
共に、平和を広め核兵器のない世界を
追求する勇気を持ちましょう。』
こう原爆資料館内の芳名録に記帳し、
その傍らに2羽を置いた。
(画像はgoo.blogより)
この4羽の折り鶴は
原爆資料館に展示公開予定だそうです。
(早く展示していただきたいですね!)
森重昭さん
1937年生まれ、歴史家。
2008年『原爆で死んだ米兵秘史』(光人社)出版。
妻・佳代子さんと広島在住、2人の子供がいる。
当時8歳だった森さんは、
爆炎の中で九死に一生を得た。
『爆心地から2.5メートルの場所にいました。』
と当時を思い出す。
『猛烈な爆風で小川に飛ばされ、
気が付いたら雲の中にいたのです。
あまりにも暗くて、
10センチメートル前の自分の指先すら
真っ暗で見えないほどでした』
『爆風は信じられない強さで、
周りの家や、樹木、そこら中にあるものを
空に向かって巻上げていったのです。
地球が爆発したのかと思ったほどでした』
『自分が無事だったのは、まるで奇跡です』
と森さんは語ります。
1945年8月6日、8時15分。
米兵が拘留されていた憲兵隊司令部は、
爆心地から400メートルも離れていなかった。
9人の米兵は、即死だったと言われている。
ヒュー・アトキンソン軍曹(ワシントン州)は
奇跡的に猛烈な爆裂の中を
生き残ったことが認められているが、
翌日には放射線障害で亡くなった。
ラルフ・ニール軍曹
(ケンタッキー州)と
ノーマン・ブリセット三等兵曹
(マサチューセッツ州)については
原爆が600メートル上空で炸裂する前に、
尋問のため
少し離れた市内(宇品)に連れて行かれた。
しかし、その距離を持ってしても
原爆の影響を免れることはできなかった。
日本人医師による手当ての甲斐なく、
13日後に放射線障害により亡くなり、
宇品憲兵隊員の手で埋葬された。
https://www.nippon.com/ja/people/e00097/(参考文献)
数十年もの時と私財を掛け続けた
森重昭さんの尽力により、
1999年
被爆米兵記念碑を中国憲兵隊司令部跡地に建立
2009年
12人目となる米兵被爆死者を資料館に登録
これをもって、
12人の歴史が刻まれることとなる。
ダーデン・ルーパーさん
(アーカンソー州)
ジョン・ハンシェルさん
(ウィスコンシン州)
チャールズ・バウムガートナーさん
(オハイオ州)
ラルフ・ニールさん
(ケンタッキー州)
バッフォード・エリソンさん
(テキサス州)
ジェームズ・ライアンさん
(ニューヨーク州)
ジョセフ・ダビンスキーさん
ジョン・ロングさん
レイモンド・ポーターさん
(ペンシルバニア州)
ノーマン・ブリセットさん
(マサチューセッツ州)
ジュリアス・モルナーさん
(ミシガン州)
ヒュー・アトキンソンさん
(ワシントン州)
森重昭さんのご尽力により
知るところになった12名の尊き方々の魂へ
心より哀悼の意を表します。
May his soul rest in peace.