「質の良い教育、質の良い商品、質の良い概念」
これって、無作為の集団で共有できるのか?
この答えは本当に難しい。
出来る人もいれば、出来ない人もいる。これでは全く回答になっていないので0点。
「質」の担保を共有するためにはどうするのか?
そもそも、そんなものは必要ないと言えば必要ないもの
だって、日本人同士で言語が違うんだから
公立の小中学校での言語と、私立の学校の言語は違う。
自分が公立小学校に通った時の、あのなんとも言えない違和感は正しかったのか?自分の考えが間違っていたのか?
経験として知りたかった訳で
僕は20代の最後にダーツというツールを使って、公立の学校のような集まりをつくろうと考えた。
優等生がいて、不良がいて、いじられるような子がいて、静かに読書する人がいる。学力は上から下まで縦長
「ドラえもん」とか名作学校アニメのような感じ
ここで、真っ当な正論を続けるとどうなるのか?
やはり人というのは「やりがい」に対する勘違いがないと動かない。
人間は誰かの主観で出来ている訳ではない
習慣は他人には変えられない、でも自発的な気持ちも起こせない。
これって、どうにもならないのか?
例えば、堀江貴文さん好きだよ。
と気軽に言うと、誤解されることが多い。
でも、稲盛和夫さんを尊敬する。
と言うと、おお。そうですよね、凄いねとなる。
これだけで、あまりにも前提条件の違いが大きいことがわかる。
誰の何を知って、お互いが意思疎通をしているか?
どの断片を切り取って、会話をしているのか
何のために、時間の共有があるのか
好かれることが大切なのではなく
尊敬されることを大切にすると毎日の生活は素晴らしくなる
毎日、1日がはじまることに感謝して、1日が無事に終わることに感謝する。
こういう気持ちを持つ人は美しい。
自分はこれだけ生きても、まだ心から素直に感じることは出来ていない。
それだけ未熟だということだ
これは、自分の未来に対して
期待していることの証明になっている